午前中までの強風雨がうそのようにおさまり秋の日差しが心地よいが少し寒い。そんな中でこの歴史散歩が始まった。そういえば、下関は久しぶり。たまに見かける歴史的建造物を、しゃれた建物があるなと、横目で通り過ぎていた建物群が今回の焦点だ。歴史的に見れば、「近世建築」の主流である古典主義のルーツはギリシャ・ローマ、一方「近代建築」のルーツは産業革命(鉄やコンクリートの量産)であり、日本では1900年頃(明治33年)に「近世建築」と「近代建築」がほぼ同時に流入して建築の西洋化≒近代化が始まったというが、まさにその時代の建物群を目の前にして、気持ちが高ぶる。当時、日本では、英国から建築家のジョサイア・コンドルが日本政府から招かれており、弟子の筆頭に辰野金吾(東京駅が有名)がいて、またその弟子に長野宇平治がいて、西洋化を進めていた時代だ。

歴史の古い順に、建物をみて感じた感想を紹介すると、(私見的で勘違いがあるかも)

1)「下関南部町郵便局庁舎」1900年建造(明治33年)、煉瓦造2階建、設計:三橋四郎(鉄網コンクリート工法考案)
ルネサンス様式「近世」(左右対称、水平線強調)というが、驚いたことに煉瓦造に瓦の屋根だ。日本融合美。屋根の前部に手すり(バラストレード)があるが、本来は手すりの奥に屋根を隠す傾向にあると思う。2階の窓上部には神殿がのっている。西洋建築を学んだ日本人建築家の習熟度を測る指標となる建物だそうだ。なんと、我が国最古の現役郵便局舎と聞いて驚く。

2)「旧下関英国領事館」1906年建造(明治39年)、煉瓦造2階建、設計:ウイリアム・コーワン
クイーンアン様式で赤煉瓦と白い窓枠が特徴、自由でアンシンメトリカル(東京駅と同じ)。屋根の前部3面に階段状の装飾(ステップゲーブル:スコットランド建物の特徴)が目を引く。トスカナ式列柱と3連アーチも美しい。またも、瓦屋根。当初からだそうだ。(外人の設計なのに)室内も、豪華な暖炉やモールが素晴らしい。紋章まで忠実に復原しているという。畳敷き有。煉瓦造は構造的に縦長窓になる。

3)「旧宮崎商館」1907年(明治40年)、煉瓦造2階建、設計:不詳
Copilotで調べると、和洋折衷スタイル(外観洋風、内装和風)。赤煉瓦と白い窓枠と5連アーチはクイーンアン様式ぽい。軒には歯を連想させる「デンティル」が印象的。煉瓦に施された面をとった細部の加工も見所だが、華美な装飾はなくなり近代化されていく「古典主義」を感じる。

4)「旧秋田商会ビル」1915年(大正4年)、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建、建築関係者:西澤忠三郎他
Copilotで調べるとクイーンアン様式と出る。自由な設計で、設計者はさぞ楽しかったと推測する。ドームあり、内部には本格的な書院造あり、3階には畳の大広間あり、屋上には庭園と離れ屋まである。構造的にも意匠的にも歴史的にも貴重な建物であると実感する。設計者のしてやったりの微笑みを感じる。

5)「山口銀行旧本店」1920年(大正9年)、煉瓦及び鉄骨鉄筋コンクリート造2階建、地下1階、設計:長野宇平治
Copilotで調べるとクイーンアン様式と出る。東京駅を設計した近代建築の父と呼ばれる辰野金吾の弟子である長野宇平治の設計した建物だ。外壁は徳山産の花崗岩、玄関脇にはギリシャ建築様式の柱形がある。当時の保険会社や銀行は古典主義を基本として由緒のある様式をまとうことで、会社の信用を増す効果もあったようだ。張り出したコーニス(上部の庇)やパラペット状の手すりによって奥に在る薄い屋根を隠し、全体として箱型、長方形の外観。古典主義の様式的な細部が抜け落ちることで、徐々に現在見る装飾のない箱型の近代建築に近づいていったのだろう。

6)「旧逓信省下関電信局電話課庁舎」(田中絹代ぶんか館)1924年(大正13年)鉄筋コンクリート造3階建(煉瓦壁有)、設計:逓信省営繕課
欧州の新建築運動の影響を受け、歴史主義からモダニズムへの過程期(近代建築運動)のシンプルモダンな建物で、局面の塔屋(ヴォールト屋根)や飾りをもたない付柱が2階窓上部の薄い庇の上に露出している新しい造形。柱はパルテノン神殿を彷彿させる。驚いたのが、内田式流水防火装置で、火災時には塔屋の水槽(40トン貯水)から2階窓上部の四角い穴から放水され特許をとっているという。なんて斬新な。妻面窓は長方形窓を3分割、RC化に伴い開口部が大きくなっている。近代化の波を感じる。

7)「関門ビル」(旧関門汽船ビル)1931年(昭和6年)鉄筋コンクリート造4階建、設計:不詳
伝統的様式によらない独自の装飾として、くねくねしたツタや女性の髪のようなアールヌーボ、その後、ギザギザの短い幾何学的な線が特色のアールデコがある。この建物は装飾控えめなアールデコ(直訳すると装飾芸術)の傾向がある。大正末期から昭和初期に花開いたデザイン。元々はオーシャン・ライナーの船の内装から来た(船は揺れるのでフラットに近い直線的な内装)とする説が有力なので、汽船ビルというのは頷ける。建物隅角部を切り落とし、縦長の大きな窓が印象的。ギリシャ式の柱が1本あるが、いよいよシンプルになってきたのを感じる。

8)「中国労働金庫下関支店」(旧不同貯金銀行下関支店)1934年(昭和9年)鉄筋コンクリート造3階建、一分地下1階、設計:不同貯金銀行営繕課 関根要太郎、他4名、免震基礎設計:岡隆一、小幡慶次
外壁は花崗岩だろうか、トスカナ式円柱と付柱がシンメトリー配置で重厚感がある。銀行は古典主義を基本として由緒のある様式をまとうことが多い。更に、この建物は免震基礎を用いていることに驚愕。地下室に両端がピン接合となった免震柱を設置し、地震力の低減をしているというテクニカルな建物だ。世界的に見ても当時から日本人の技術力には凄いものがあったのではと思う。1923年の関東大震災から意識が高まっていたのだろう。古典的だが威厳の在るシンプルさで現代の銀行形態としてもしっくりくる感じだ。

最後に:今回のまちあるきを通して、下関は立地的にも、幕末の歴史的にも港湾都市として西洋文化とも近かったのだろう。下関は、多くの足跡が残っている貴重な地であると感じた。明治の幕開けとともに、西洋文化を吸収し、日本風にアレンジし昇華させようと試みた先人の姿と声を感じた。随所に日本の魂も感じられ、歴史的にも重要な文化遺産であると体験できた。一方、気になるのは、日本の伝統建築である。西洋文化と引き換えに見失いつつあるのではないだろうかという懸念も生まれた。機会があれば、日本の伝統建築をめぐりたい。

今回、明治から昭和初期にかけての34年間に建てられた建築物を見ただけでも、古典主義からモダニズムへの変遷そしてテクニカルな考案もみられ歴史的にも貴重な財産であることは間違いないが、そればかりでなく内外部空間まで含めた建築空間に、心に響く普遍的な要素(歴史的)や質感(本物素材)や条件(環境立地)を含めて、空間芸術としての建築が成り立っていたからだとも思う。過去から学び、未来を創る。やがて我々も過去になる。残される建築を創れているのだろうかと反省させられた。