「旧岩崎邸」は 西洋あこがれの美学? 1896年(明治29年)ジョサイア・コンドル 2023年4月27日

洋館:様式無視ごちゃまぜ。コンドルのやりたい放題。

和館:風格ある上品さ、空間造りはさすが念仏喜十。

撞球室(ビリヤード室):洋館から地下通路で繋がる。

装飾的な暖炉

イオニア式列柱(1階はトスカナ式)

イスラム風天井

地下通路への階段

三間四方の9坪の「九間(ここのま)」床の間に富士山が、ど真ん中に描かれています。

矩形テーブル

三菱財閥を創業した岩崎弥太郎の長男、岩崎久弥の旧邸。当時は今の3倍も広く、建物も20棟あったといわれるが、現在は、洋館、和館、ビリヤード室、庭園が残っている。洋館はジョサイア・コンドルの設計。和館は大工棟梁、大河喜十郎(念仏喜十)の施工。明治29年築。

ジョサイア・コンドル 1852年ロンドン生まれ
現:東京大学工学部建築学科の初代教師
日本で初めて本格的な西欧式建築教育をおこなう。
門下生に、東京駅を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊など、近代日本を代表する建築家がいる。
鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など多くの洋風建築を設計。

立派な和館の横に洋風応接間を作り、ソファー、サイドボード、テーブルの3点セットを玄関近くに配置するスタイル。近代の洋風なオシャレの始まり。基本的には和館に住み、来客は洋館で迎える。日本独特。
英国では、洋館をレンガで造るけど、これは木造。コンドルは親日家。屏風や扇子、茶碗にまで、生活の中に美術が浸透している日本に対し、「美の花園にいるみたい」だと。日本画好き。結局、日本に居着くことになる。和館の北東に洋館があり、その北東にビリヤード室がある。ヨーロッパや中国は絶対に左右対称に建てるが、雁行は書院造りにはじまる日本独特の配置。
パーティーの時、まずホールに集まり、最重要女性の手を主人がとって食堂に入る。その場では、男女の話題や政治、下ネタ禁止のレディ&ジェントルマンの時間。終わると、男女が分かれ、女性はおしゃべり、男たちはビリヤード室に向かう。そこでは言いたい放題の場となる。そんなビリヤード室は、スイスの山小屋風であり離れ茶室の趣で、デザイン的な調和としては巧みなバランスというか、トンチンカンにも感じる。ビリヤード室前面に列柱のベランダがあるが、寒いヨーロッパでは、ベランダは造らない。スイスの山小屋にも無い。インドや東南アジアで生まれた植民地的なもの。洋館の列柱にしても腹巻を巻いたようなデザインは中世のルールを逸脱。エリザべサン様式、ジャコビアン様式、イスラム風な天井など。イスラム風は普通喫煙室につかう。やりたい放題のごちゃまぜ洋館。コンドル先生も晩年の祝賀パーティーで「日本はヨーロッパと一緒になって新しい文化を創っていく。真ん中にイスラムがある。自分は架け橋となる」と釈明している。笑。和館の完成度は高い。和館は念仏喜十ってあだ名の棟梁に造らせた。工事しながら「南無阿弥陀仏」って念仏を唱えていたようだ。床の間の絵で、真正面が富士山は正面性の強い、しっかりした絵で素晴らしいが、珍しい。大抵は、左右どちらかにずらす。広間は、三間四方の9坪の「九間(ここのま)」、面会や法事の折にはお坊様をまず九間に通す大事な部屋。でも一時期、アメリカ軍人の諜報機関が使っていた。地下に拷問室があったようだ。銃声も聞こえ手荒く使っていた可能性が高い。GHQが去った後は、空き家放置され和館はぼろぼろだったようだ。和館は風格のあるすっきりとした上品さ、格式ある空間造りはさすが念仏喜十。
岩崎久弥さんは、すごく教養のある方で、ペンシルベニア大を出て、ケンブリッジ大にも学び、書斎で英語の動物学雑誌を読むのが好きな学者でもあった。家畜の改良に興味を持ち、小岩井農場を作り家畜の品種改良を自分でやっていた。弥太郎の没後に、三菱お抱えの建築家であったコンドルに洋館を任せた。
男子は中学生になると家から出される。「ああいうところに住むとロクな男に育たない」っていうんで私設の寄宿舎を設けて、そこに一族の男子が集められ、朝起きて拭き掃除、学校終われば勉強、乗馬、剣道と、スパルタ教育。本邸に帰れるのは日曜だけ。又、空襲があった時、近所の人が火消しにきてくれた。火が燃え始め、あまりの怖さに久弥さんの孫の寛弥さんが逃げ出そうとしたら、久弥じいさんにステッキで鉄兜の上から本気でバーンと叩かれて、「岩崎家の当主たる者が先に逃げるとは何事だ。お前が先に突っ込め」っていわれたようだ。貴族は真っ先に敵陣へ突っ込めという、イギリス式教育。

この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えている。